一路が参勤交代を行った文久2年という年は幕末期にあたります。

年号を遡るとその前は万延、安政、嘉永となり、細かく元号が変っています。

現代と違い当時は災い、凶事を断ち切るために災異改元が頻繁に行われていました。

私たちになじみがある年号「安政」に変わったのも前元号の嘉永期の災事を断ち切るためでした。

 

始まりは嘉永期である安政大地震は数年にわたって多発して起こった連続地震です。

京都御所の内裏が燃えたのも同じく嘉永期、浦賀にペリーが東インド艦隊とともにやってきて開国の脅威を与えたのもやはり嘉永期です。

これらを凶事とし嘉永から改元して安政となりました。

しかしせっかく安政と改元したのに地震はやまず、安政地震と名付けられるほど頻発し、またペリー率いる米国艦隊が今度は江戸湾にやってきてしまいました。

結果、日米和親条約の締結、続いて日米修好通商条約始め他4か国と条約を結ぶことに。

その条約が天皇の勅許を取っていないことから、幕府に対する尊王攘夷派の批判、不満がさらに高まりました。

その勢力を一掃するため幕府は批判勢力を取締り、弾圧しました。

それが「安政の大獄」と呼ばれ、井伊直助が桜田門外(の変1866年 万延元年)で暗殺されるという事件につながりました。

また1858年(安政2年)には江戸でコレラが流行し数十万の人が死亡しています。

この数は、現在の災害での被害者数と当時の人口を考えても相当数が犠牲となった大災害です。

このように世情不安と政局不安が同時に起こりまたも凶事改元となります。

 

元号は「万延」に変わりました。
1860年(万延元年)に、政局安定のため孝明天皇の異母妹、皇女和宮は徳川家茂に天皇の勅許により正室として降嫁されます。

公武合体です。

万延期はたった1年しかない時代でした。

万延元年の翌年1861年はもともと改元が予定されていた辛酉の革命年にあたります。

王朝の交代とされた年として行われた改元です。
この改元で「一路」が参勤交代が行なう文久となります。

一路率いる蒔坂家が田名部を出発したのが12月、和宮の降嫁の行列が中山道を通ったのが同じ年の秋、翌年の9月には薩摩藩の島津久光の行列を乱したイギリス人が護衛の武士に殺傷された生麦事件が起こります。

この二つの歴史上大きな出来事の間に蒔坂家の参勤道中となります。

幕末ともなると徳川将軍家の幕威も相当に落ちています。

幕府も既に参勤交代どころではなくなり、参勤交代の制度が緩和されます。

そのような時代に江戸時代始めの万事につけ仰々しく華やかなりし時代の参勤交代を再現した一路はさぞ道行く人の度肝を抜いたことでしょう。

武士の権威が失墜しかけた時に、武士の真骨頂を参勤交代という軍行で発揮しようとしたのですから、いはやは何ともご苦労な事です。

この後時代は薩英戦争、坂本竜馬の登場、大政奉還、討幕、戊辰戦争、王政復古の大号令、明治維新と一気に駆け抜けます。

物語は江戸に到着して終了しますが、この後に続く時代の波を一路はどういう風に乗り切ったのでしょうか。

気になります。

続編でないかな。

 

最後までお読み下さってありがとうございます。

また次回。